香里団地一帯には、戦時中、砲弾などの兵器用火薬を製造する香里製造所があった。 敗戦により工場は閉鎖されたが、1952年(昭和27年)、朝鮮戦争の特需ブームにのって火薬製造会社が、旧香里製造所の 払い下げを申請した。これに驚いた枚方市、寝屋川市の香里園地区住はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。枚方市長・ 市議会を始め町内会、PTA、婦人会などは再開反対を叫んで、国会・政府に陳情を重ねた。衆議院通産委員の現地視察には、 反対の旗とプラカードが香里園地区を埋めつくした。そして、半年以上に及ぶねばり強い地元の反対運動が実り、翌年3月、 政府は火薬製造所再開を断念した。 1955年(昭和30年)に日本住宅公団が設立されると、当地域に住宅建設が計画され、翌年、香里団地の造成が始まった。 旧製造所の建物・施設は、すべて取り除かれて近代的ニュータウンに一変したが、ここ妙見山の一角は団地計画から外れたため、 旧製造所汽缶場の煙突は撤去されずに残った。 煙が出ていた時代、再び煙を出させないように運動を繰り広げた市民の平和への熱い思い、平和な住宅地の発展を、この煙突は見続けてきた。 枚方市は、1982年(昭和57年)12月に「非核平和都市宣言」を行い不戦と平和を誓い、この煙突を保存することにした。 1995年(平成7年)の被爆・戦後50周年を機に、あらためて平和のモニュメントとして守り続けることを表明する。 | |
1996年(平成8年) 3月 | |
大阪府・枚方市 | |
〜枚方市妙見山配水池の碑文より〜 |
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